あいちトリエンナーレ2019/田中功起/愛知芸術文化センター10F(A11)

田中功起「抽象・家族」

※9月3日より展示のフレームを再設定の予定(最後の*参照)。以下は8月10日に見たときの感想です。

展示について

広い展示エリアの3箇所に映像コーナーがあり、その周りに絵画や写真を含んだインスタレーションが配置されている立て付け。一見何がどうなっているのかわからなかったものの、メインは映像作品と認識していたので、映像を番号1から3の順に見て回りました。映像作品は全体で1時間50分という長さでして、断片的に見ることも想定されているということでしたが、全編見ました。というか最初の映像を見たら全部見ないと気が済まなくなったのです。

外国にルーツを持つ日本人4人が一軒の家で生活する場面と、監督からの事前質問にそれぞれ答えながら皆で語り合う場面、4人で共同作業をする場面が織り込まれた映像作品。一緒に料理を作って食べたり、起き抜けにコーヒーを淹れて飲むなど、4人の日常の様子はまるで家族のようにも見えました。語る内容については、私には気づけないようなことだったり、今だから言える告白とも思えるものもあり、見ていて一瞬辛くなることもありましたが、生活と語りと共同作業がいったりきたりする編集が私の感情を鎮めてくれました。

映像を見た後で改めてインスタレーションを見ると、あーこれはあの時の○○なのかーと気づいたりして、初めて物(インスタレーション)の意味合いを知ることができました。そのように自分の内面の変化に気づけたのは、映像作品とインスタレーションがセットになっているからこそだったのではないかと。

なお、帰宅後に、たまたまNHKの番組『ひとモノガタリ「曖昧な境界を生きて~“ハーフ”から見た日本のカタチ~」』を見たのですが、それとも呼応する内容でした。

誰かの体験が私の体験になる

ところで、人の体験談を見聞きすることって、誰かの体験が私の体験になるんですよ、気持ち悪く聞こえるかもしれませんが。つまり、なにかの当事者が体験を語ること、質疑応答などで体験を補強することは、当事者ではない人にとっては想像力を働せることができる、そのような自分にとっての一連の出来事を「誰かの体験が私の体験になる」というふうに意識しています。

同様に考えると、誰もがなんらかの当事者であるはずで、私も自分に起きた出来事を振り返って考えると3つくらいは思いつくのですが、聞かれない限り自ら語ったりすることはないですよね。ぱっと見何事もなかったかのように生きています。もっとも何事もないことが前提で生活や仕事をこなしているわけですが。私のある種の当事者性は私が話さなければそれで終わりだと思うのですが、たまには私の体験が誰かの体験になるようなことも考えてもいいのかもしれません。

また、何事もなかったかのようにしているのは、外見でわからないからでして、では外見でわかったとしたらどうだったのだろうと考えると、難しいですね。他人の外見とは自分の内面が感じ取ったその人の像なので、他人を外見で判断するのを克服することはできるかもしれません。一方で、自分が思う自分の外見を自ら乗り越えることの方が難しそうな気がします。他人は何とも思ってないのに、きっとこう思っているだろうと感じてしまう自分が常にいる、そんな感じでしょうか。

軽くネタバレ?

などと当事者性、他者性、外見について考えを巡らせたのは、4人と作品に登場するアドバイザーの語りだけではなく、監督自身も映像の中で当事者性(4人とは別な意味の)について言及していたからです。このときの思いをうまく表現できないのですが、平たく言うと、監督も私も当事者性を語らないこっち側だと思っていたら、こっち側は私だけで、監督もあっち側で、私だけ一人ぼっちだったのかと気づいて焦る、みたいな。このどんでん返しがあるのとないのとではだいぶ作品に対する考え方が違ってくるのではないかと思います。

なお、上に掲載した写真は、映像作品の出だしの方の一場面で家の庭?に2人がいる映像に4人の共同製作が重なっていくところを撮ったもの。この庭の映像から製作物に次第に変化していく状況がよかったんですよね。誰かの経験が私の経験になると上述しましたが、それってこういう感じなのかなと。撮ったときは気づいていませんでしたが、なぜここを撮ったのか考えていたら思ったのですが。例えて言えば、自分がPhotoshopだとして(強引ですみません)、私を構成するレイヤーに新規レイヤーが追加されてそこに誰かの体験が設定される、設定されたばかりは一番上にあってはっきりと意識しているものの、次第にぼんやりしてしまう(だんだん透過してきて無自覚に、あるいは他の新規レイヤーで覆われて)、だけど何かの刺激で(時間だったり、他のレイヤーだったり)はっきりしたり、他のレイヤーとの重なりで気づくこともある。そんなふうに過去の体験の強度は、状況によって常に変化していると思えるのです。

また、田中功起作の映像といえば、個人的にはダンボールを運ぶ映像(東京国立近代美術館2階エレベーターホールに常設)しかみたことがありません。近美のどこかからどこかへ箱を運ぶ映像はシュールで面白いんですが、似たようなシュールな場面が「抽象・家族」の最初の方にありました。見たときは気づかなかったのですが、なぜアレを移動させてたのだろうと頭の片隅にずーっと残っていて、昨日突然ダンボールの映像が降ってきたんですよ。監督にダンボールの映像作品からの引用という意図があったのかはわかりませんが。ちなみに、『ダンボールの映像が降ってきた』と書きましたが、どんな風に降ってきたのかを表したいと思い『突然』を付け加えたのですが、突然段ボール、昔見に行きましたよ、確か今はなき新宿ACB。言葉の選び方ってこんな風に自分の経験から来るのかもしれませんね。

あいちトリエンナーレの作品ページ
https://aichitriennale.jp/artwork/A11.html

*)
展示のフレームを再設定については、以下の美術手帖の記事で知りました。作家ステートメントも全文読めます。限定された時間の中で「展示」を「集会化」するという、現在のあいちトリエンナーレが置かれている状況への作家の応答に、賛同します。映像を見て率直に感じたことなどたくさんあるので(上述してませんが)、再度9月に行った際は集会に参加したいです。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20408

追記)
あいちトリエンナーレサイトに展示のフレームの再設定について掲載されていました
https://aichitriennale.jp/news/2019/004079.html


誰かの体験が私の体験になるについては、以下の記事でも書きました。

[書籍]脳科学者の母が、認知症になる: 記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?