[書籍]脳科学者の母が、認知症になる: 記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?

50代、60代になると親の病気や認知機能低下などで困惑することも多くなります(私自身もそうですが)。そんなときに、この本を知りました。一般人である私が母を前にして途方にくれているときに、脳科学者である著者の場合は途方にくれるのかくれないのか、そういう興味にかられて読んでみました。一言で感想を言えば、脳科学者と言えどもカッとすることもあるんだなと、私は自己肯定でき、勇気付けられました。

そのように自分の状況と照らし合わせて読んでいったわけですが、私とは決定的に違うのが、著者が30代のとき、そして母親が65歳のときに発症したという部分でした。もうすぐ90歳になる私の母の場合は、びっくりすることがあったとしても、そもそも寿命が近いのだからと自分を落ち着かせようという気持ちが働きますが、親が60代の場合は落ち着いていられませんよね。本の中で著者は娘としての葛藤を随所で描いていますが、それらには誰もが共感するのではないでしょうか。本の中の例をあげたいところですが、興味のある人は是非読んでみてください。

脳科学者の考察から得たこと

脳科学者ならではの考察もとてもためになるものでした。一例をあげると、感情記憶は残りやすい(何かの出来事が起きると感情のシステムがいち早く反応している)そうです。

ということは、認知症の人が何かをできなかった場合は、できなかった内容を記憶していなくても、できなかったときに感じた恥ずかしさや、申し訳ないと思う気持ちは残っているのでしょう。逆に、失敗しつつもどうにかこうにか最後までやり遂げた場合は、やれた内容を記憶していなくても、嬉しいという気持ちは残っているのでしょう。

また、その人の希望通りになることが重要ではなく、失敗してもいいからその人に選択の余地があって責任を持って生活出来ることが重要なのだそうです。
ああ、もっと早くに読んでおけば…そう思わざるを得ませんでした(こう私が思うことが、できなかったことに縛られているので、私自身もできたことを評価した方がよい、というのはわかってはいますが)。

と言うのも…
以前母からこんな電話がありました。
「宅配便の不在通知が入っていて自動応答の電話にかけてみたが、やれないので手伝って欲しい」
できない理由を列挙する母を前に、私はイライラして、自分で自動応答に電話して母の希望日に届くように手配しました。
つい先日、母の元にまた不在通知が入っていたのですが、その時かけてきた電話の内容は以前よりもとても混乱していて、私も再びイライラしながら自分で再配達依頼を完遂してしまいました。

以下に書くことは私は無理!とは思いますよ。だけど、できれば、
母と一緒に、自動応答ではなく、オペレーターに電話をして用件を伝えて、『その人に選択の余地があって責任を持って』再配達依頼をやれればよかったんでしょう。
そうであれば、母もなぜできないのだろうという焦りの感情を持たずに、やれてよかったという満足感を得ることができたのでしょう。
…と言ってみたものの、高齢者が「郵便局再配達依頼」ができないと泣いていたので検証してみた、という記事を読むとかなりハードルは高そうですが、機会があったらやってみようと思います。

なお補足すると、本の中では『感情記憶は残りやすい』については、上述の私の体験で示したネガティブな面は強調されてはいません。人は感情のシステムがいち早く反応する、記憶を司る海馬以外の脳部分が正常なアルツハイマーの人の場合は感情のシステムは残っているので、この意味をポジティブに捉えていくことが必要、と解説されています。

重要な学び

家に認知症の人がいる場合は、何かがなくなると、それを認知症の人のせいにしがちになる、という傾向があるとのこと。

本当にそういうこともあるかもしれませんが、必ずしもそうとは限りませんよね。その理由は以下のような例からも明らかです。

例えば、このアイスを買ったのは私だと言い張ったものの、実は家族が買っていたとか。
ここに私が置いた本を片付けたでしょ、と家族のせいにしたものの、実は自分が片付けていたとか。

もともと脳の中には自分と他人を区別する働きをする部位があるそうで、その部位によって、これは誰の物か、この出来事は誰がしたのか、この考えは誰の考えか、を認識しているとのこと。この部位が傷つけられると自分と他人の区別がつきにくくなるのだけれど、傷つけられていなくても、自分の経験と他人の経験をごっちゃにすることもあるわけですよね。

こんな風に『自分と他者との境界は曖昧』なのだから、一番弱い人のせいにしがちになることには気をつけたいですね。

他の見聞との共通点

あとがきに、つい先ごろ秋田竿灯祭りにご両親と行ったときの描写がありました。
『私の人生の中でこの人たちが一番、私が体験することを自分のことのように感じてくれる人たちなのかもしれない、と思った。私の体験は、母の体験になるのである。』

読んで思い出したのは、どういうわけか、東京大空襲で孤児となった人の大人になってからの証言で、孤児として一人残されたと思った時は親を恨んだが、自分が残ったことで家族のことを伝えることができるんだ、全員死んだ家は誰も伝える人がいないんだ、ということに気づいた、というような内容を語っていたことでした。

親の体験を子が話すことで自分の体験になるのだ、と思った一方で、自分に何ができるかと考えたら、体験を伝えることなのかもしれないと思った次第。つまり、母に今日はどうだったかを詰問じみた雰囲気で聞くのではなく、母と共に何かを体験する、あるいは、母に自分の体験を語るとか。


出版社サイト
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309027357/

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https://allreviews.jp/review/2726