木村高一郎 個展「境界線」を観た

話はいきなり逸れますが、先日、東京国立近代美術館の所蔵作品展を見に行った際に、印象に残ったのが以下の高松次郎の言葉でした。

もし現在でも芸術に存在意義があるとしたら、それはその難解さにおいてだろうと思います。作品の内容が“問い”という形でしか成立しえないことを意識している作家たちに、その答えのわかりやすさを要求するのは酷というものです。

猫写真という、どちらかというと「答え」を提示することが多い私としては、改めてアートとエンターテイメントの違いを理解できたような気がしました。

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さて、今回観た個展の作者、木村さんは2014年の写真新世紀で受賞された方で、共通の知り合いがいます。そんなこともあり観に行きました。展示の全てが何を撮ったのかわからない写真でした。「これ何?」、「これは色がさっきのより薄い」、などという感想しかでてこない、その状況が、私には問いを突きつけられたような気がしました。

展示作品の種明かしが会場に置いてあるiPadに入っていて、成る程と感じ入りました。こんにちの写真と社会(世間)が抱える問題と密接に関わっているような問いかけに、とても共感できました。

iPadの種明しを観ると安心したのですが、実はこの安心というのもやっかいな感情で、あんがい高みの見物なのかもしれません。そんなことに気づいたのは、そういうしたり顔でみている私が見透かされる仕掛けが施されていたからです。それに気づいたときに鮮やかに騙されたなと、いい意味で思いスカッとしました。

展示というものはその時点での完成系なので、すごいなあと単純に思うことが多いです。今回は作品になるまでの過程、フィールドワークのようなことも少し聞けて、私の作品作りにもヒントをいただいたような気がしました。

また、会場のギャラリーは、いわゆる貸しギャラリーではなく、言って見れば実験場のようなところで、別な機会に別な問いを提示してくれるに違いない、と思ってしまうようなところでした。

■データ
木村高一郎 個展「境界線」
2015年1月10日〜1月16日@落合soup