[映画・講演] 「未来をなぞる」上映会+ディスカッション「カタストロフとイマージュを考える」

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大学の階段教室での「未来をなぞる 写真家・畠山直哉」上映会とその後のディスカッション。ディスカッションでの登壇者の方々の意見は、この映画を見る上での新たな視点を与えてくれるものでした。とても貴重なお話だったので、まとめておきます。

また、今回の上映はとてもクリアで、映画冒頭の間取り図を描いているのが方眼紙風の紙であることに初めて気づきました。

ディスカッションは、登壇者それぞれが10分くらいずつ映画について語り、その中から出てきた『写真メディアとは何か』について意見交換をするというもので、最後にディスカッションで出てきた写真家への質問に対して畠山直哉氏が答えるという構成でした。

ディスカッション要旨

 

クレリア・ゼルニック

[フランス国立高等美術学校教授で芸術哲学が専門。現代文化美術の研究もされており「七人の侍」論(三船敏郎が好きらしい)や震災以降の論文もあるとのこと]

「狭い意味でのドキュメンタリーをはるかに超えて感動的な映画で、そこに達することができたのは監督と写真家の2人の間の対話なのでは」と語りました。

中でも、「この映画は運動を描いていて、写真家の制作過程の動き、2つの場所の往復(東京ー陸前高田、東京ーパリなど)、写真家が道を歩く姿などに時間の要素を感じることができ、道を歩く姿からは時間というものを映画によって見事に浮き彫りにしている」という発言は、私が今まで自分で言葉にできなかったこの映画の好きな理由を代弁していると思いました。

また、「道のテーマとしては、乗り越えようとしないで、乗り越えない、道から出ないというもので、それは経験を深める、忘れ去らないということにつながり、外からの救いや解決策を求めるものではない、そのために何度も同じ場所(実家のあった場所)に立ち帰っている」、という指摘に感銘を受けました。

 

塚本昌則

[東京大学教授でフランス文学が専門]

「映画を通して言葉に簡単にならないことを写真で表しているのではないか」と語りました。つまり、「言葉だと単純化してしまうところを、何かわからないまま写真で提示し続けているのではないか、孕んでいる問題をそれをまだ知らない人とどうやって共有していったらいいのかという問いかけになっているのではないか。」

「写真家の身振りでそれを示していて、気仙川を撮る姿を見せることが共有できる一つであることを表しており、映画最後のイモリのシーンに象徴されている」、という発言には、私がこの映画を多くの人に見て欲しい思いに通じるものがありました。

 

管啓次郎

[映画「未来をなぞる」での畠山直哉論を語るシーンが印象的な詩人、エッセイスト、翻訳家、明治大学教授]

「気仙川によってこの町が作られたということを改めて思わされた、というシーン、これを見ても、人間がその影響を避けて通れないのは地形と気象であるのに人間がコントロールしている気になっているのではないか」と語りました。

「震災で大きな断絶があったのに5年経つと慣れすぎて忘れてしまっている。人が忘れようとしていたものが映画を見ると返ってくる」との発言には、震災に限らず、繰り返して見るべきと思った映画は見続けなければ、と改めて思いました。

また、「一人の人の切り取られた世界(経験)を通してしか全体を知ることができない」、との発言には私だけでなく、会場にいる人々が共感している雰囲気を肌で感じました。

 

野崎歓

[東京大学教授でフランス文学が専門]

「写真メディアとはなんなのかということを提示している映画なのではないか」と語りました。つまり、「知らない人に『カメラマンです』と伝えた時に人々が思い描くこと(映画にも出てくる『新聞社かなにか?』という土地の人の反応)、そのようなちぐはぐな感覚が豊かな経験を見るものに与える映画になっている」、とのこと。

「映画全体に流れる静けさ、落ち着きが印象的」だとも語っていましたが、それは港大尋氏の音楽も大きく影響しているのではないか、そう思いました。

 

「写真メディアとはなにか」について

  • 単純には答えられないが、津波の経験がもたらした新たな事実は写真は記憶と結びついている、ということ。
  • 映画には2つの極が描かれている(芸術関係者の写真、土地の人が求める記憶のよすがとしての写真)。映画にはでてこないが、別の極としてジャーナリズムの写真がある。
  • この映画は、美の次元、思い出(時間、永遠性)の次元が重なり合っている。
  • 歴史家と芸術家の役割を畠山氏はそなえている。
  • 自然史の時間という風に考えると、歴史が200年も経っていないカメラで捉えようとしているが、もし考えるスパンが何千年になったらどうなのか、ということを突きつけてくる。

ディスカッション後、畠山直哉氏からは、ドキュメンタリーに対する批評が聞けたことが嬉しかったと語っていましたが、私もそのように思いました。私自身が、なぜこの映画を見て欲しいのか、どこが見どころだと思っているのかなど、登壇者の発言で気づかされた部分が多くありました。

中でも、運動の映画だというゼルニック氏の指摘から、ロードムービーのような要素が私にとってこの映画が好きな大きな理由であることに気がつき、そのような視点でも映画を見直してみたいと思いました。

 

開催概要
『未来をなぞる』上映会 〜カタストロフとイマージュを考える〜
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/event/futsubun20160730.html

この日の上映はフランス語字幕でした。英語と同じ語源と思われる単語など意味がわかりそうな単語を手掛かりにみていると、フランス語に興味が湧いてきました。

最後に畠山氏の最近考えていることと、登壇者からの質問(映画タイトルについて、映画にでてくる写真について)に答える時間がありましたが、またの機会に。

当ブログ関連記事
「未来をなぞる」雑感(2015年2月の3.11映画祭プレイベントにて)
「未来をなぞる」雑感(2016年2月)
改めて読み返してみると稚拙な文章だなあと思いました。上述したロードムービーの視点も加えて、前回のテキストから1年後にでも書き改めたいと思います。

おまけ
この日は、9月10日開催の畠山直哉氏がゲストのシンポジウムの告知がありました。タイトルから察するに畠山氏の最近の考えについて聞けるのではないかと期待しています。

早稲田大学感性領域総合研究所シンポジウム『〈感性の変化〉を写真家に問う ―震災後の日本をめぐって― 』
https://www.waseda.jp/inst/cro/news/2016/07/26/2920/