説明するまでもないですが、夏目漱石の第1作目の小説です。子どもの頃、家の書棚にあったものを読もうとして途中まで読むものの途中で挫折してしまった、そんなことを数度繰り返していました。今回初めて読破したら、なぜもっと早くに読まなかったのだろうと悔やまれました。つまり、「吾輩」の詳細は知らなかったものの、これまでこのようなタイプの小説を好んでいたからです。一言で言うと小林信彦が好きな人は必読です。以下に、「吾輩」は猫が語り手の小説であるだけでなく、◯◯小説であるという見立てで書いていきます。(写真は初版の表紙コラージュです)
「吾輩」は同時代小説である
小説が世に出たのは1905年1月。俳句雑誌「ホトトギス」に短編の読み切り作品として掲載されました。好評を得たため1906年8月まで11回掲載し、その11章が現在の「吾輩」の長編小説となっています。読み切りを想定して書いた(と思いますが)第1回目こそ時代を特定できそうなものはタカジヤスターゼ(胃腸薬・高峰のジアスターゼ。1899年に日本で販売されたらしい)くらいです。
連載となった第2回目(1905年2月発表)では小説の時代が現在1905年の1月であることがわかります。『今年は征露の第二年目だから』と『年始状』から、1904年に始まった日露戦争の2年目つまり1905年1月であると。こういう同時代的な感覚は新しかったのでしょうか。なお、詳しく調べてはいないものの当時の新聞小説も通俗的で時事性に富んでいたそうなので、それらと見比べてみるのも研究としては面白そうです。
また、藤村の羊羹(今の本郷三丁目辺りにあった和菓子屋)、街鉄(1903年設立の東京市街鉄道株式会社)など、当時あった事物が小説に登場するのも同時代的というか風俗的です。そのように、昔のことを今書いた小説とはちがうわけで、本当は色鮮やかにして読まなきゃいけないところを、以前読んだ時はモノクロにして読んでしまっていたなあと思うのでした。
ちなみに、実際の1905年1月に旅順(満州)にあるロシア軍の要塞を日本軍が陥落させたので、「吾輩」では戦勝ムードがしばらく続きます。特に第5回目の『混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思うくらいである』や、台所を戦場に見立てた描写、鼠が中を荒らしているどんぶりのことを『旅順椀』と呼ぶ様は、面白いと思うものの、そんなに勝った勝ったでいいんですかと思ったり(今だからそう思うのかもしれませんが)。
同時代小説といえば、1986年に朝日新聞に連載された小林信彦「極東セレナーデ」を思い出しますが、こちらは連載中にチェルノブイリ原発事故が起きて連載に取り入れたというものでした(アイドルとなった主人公に原発安全キャンペーンの仕事が回ってくる)。
「吾輩」はパロディ小説である
風刺というよりも替え歌風という意味でパロティ的な内容があちこちに見られます。
全般的に、登場人物の会話や猫の語りなど随所に落語というか漫談風な語りを感じます。第2章の吾輩が椀の底の餅を食べるシーンもそうですが、特に感じるのは第6章。書き出しの暑さ→猫の毛皮と人の着物のあたりのリズム感もいいですが、その後の迷亭が蕎麦を食べるシーンは落語を聞いているようです(オチも)。
また、『故小泉八雲先生に話したら非常に受ける』という蛇飯を語るシーンは本当に気味悪く、小泉八雲の「怪談」のオマージュ的。ちなみに、1903年に東京帝大を退職した小泉八雲の後任が夏目漱石だそうです。
「吾輩」は雑談小説である
雑談小説という呼称は多分ないでしょう。しかしながら登場人物が雑談ばかりしているという意味で雑談小説と言いたいです。吾輩の飼い主である苦沙弥先生の家に、かつての同級生や教え子(美学者の迷亭、理学者の寒月、哲学者の独仙、詩人の東風など)が訪ねてくるのですが、そこでの雑談が面白いのです。
なお、小説の本筋ではなく雑談が面白いという意味では、小林信彦のオヨヨシリーズ、特に「大統領の晩餐」、「合言葉はオヨヨ」を彷彿としました。作家の趣味的なうんちくを登場人物に雑談として語らせるところだけではなく、登場人物の名前が何かのモジリであるところなどもオヨヨには「吾輩」に似たところがあります。そう言えば、小林信彦は「坊ちゃん」の登場人物のうらなりを語り手にした小説も書いていましたね。
余談ですが、ねこやま猫道も誰かの名前のモジリなのですが、モジリにしたのは小林信彦作品の影響だったかもしれませんね、今まで意識してませんでしたが。
「吾輩」は真理小説である
真理が初めて出てくるのは、第2章で吾輩が雑煮の餅を食べようとして手こずるところです。椀の底の餅に歯がくっついて失敗したことから得た3つの真理は、笑ってしまう失敗談を通した真理(戒め?)ですが、話が進むにつれて、作家の真理(とは書いていませんが)が吾輩や登場人物を通して語られていて、おっしゃる通りだなと腑に落ちるところがありました。
印象に残ったのは以下の2箇所です(ネタバレしてます)。
吾輩が洗湯(銭湯)の人間たちを見るところで、人間は服装の動物であり裸体動物は認めない、平等を嫌って衣服を骨肉のごとくにつけまとう。が、『羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、袴を脱いで平等になろうとつとめる赤裸々の中には、また赤裸々の豪傑が出てきて他の群小を圧倒してしまう。平等はいくらはだかになったって得られるものではない。』
消極的の修養で安心を得ろ
落雲館の一件(学校の書生がボールを苦沙弥宅の庭にボールを投げ込むのが癪にさわる)について哲学者独仙曰く、積極的にやり通したって満足という域とか完全という境にいけるもんじゃない。目障りだと言って取り払ってもその向こうにあるものが目障りになり際限がない。西洋の文明は積極的かもしれないが不満足で一生を暮らす人が作った文明。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を得るものではない。自由にできるのは自分の心だけ。