[展示]ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館

現代アートの講座・読み書き工房第 四回は任意の展示についてライティングするというもの。送付したテキストを以下に貼り付けます。


インドの女性写真家、ダヤニータ・シン。そのキャリアをフォトジャーナリストとしてスタートさせたが、ここ20年ほどはアーティストとして活動している。日本での展示は、2011年以来4度目であるが(*1)、日本の美術館における初の個展であり、初期の作品も展示される回顧展でもある。近年は「美術館」と名付けられた家具状の展示構造物を考案し、その全体を「インドの大きな家の美術館(Museum Bhavan)」と称している。「美術館」の日本での展示は今回が初めて。

展示室に入り、その見晴らしの良さに目を奪われる。稼働壁をほとんど使用せず、広い展示室に「美術館」があちらこちらに設置されている様は、展示室というよりも大きなビルの屋内広場のようでもあった。また、「美術館」自体がウェブサイトの画像で見るよりも、見た目も作りも素晴らしく、その美しさに圧倒された。《ミュージアム・オブ・チャンス》、《ファイル・ミュージアム》などと名付けられた「美術館」には展示壁だけでなく、作品を収蔵する収蔵庫があり、実際に写真が収蔵されているようだ。作家は不定期に展示写真を変えることができ、作品の組み合わせを再考することができる。

また、「美術館」を考案する以前には、手に収まる大きさの小さな写真集《セント・ア・レター》を作っており、「美術館」構想と連動する形で(と思われるが)、44冊の写真集とそれを収めるスーツケースからなる《スーツケース・ミュージアム》を考案している。これらは本来ならば書籍の形で鑑賞するものであり、展示室での展示では、開いた状態を展示する、44冊の写真集の表紙を展示するなど、手にとって見ることができないもどかしさを感じさせるものとなっており、あえてそのように思わせるあたりが展示のポイントなのではないか。

「美術館やギャラリーと仕事をするたびに、物事を決めるのはキュレーターで、ここにいるわたしは死んでるのかと思うことがある。」というダヤニータ・シンの思いは、美術館の仕組みの中で仕事をしてきたことから生まれた、と語っている(*2)。一方で、ダヤニータの母親が写真好きで子どもたち一人一人のアルバムを折に触れては作っていたこと(*3)も一因なのではないかと想像できるが、あえて飛躍的に推測してみると、ダヤニータ自身のスポンティーニアス性(自然に起きる、無意識のうちに出てくる)が大きいのではないか。

ダヤニータは大学でグラフィックデザインの勉強を始めた18歳の頃に学校の課題のためにザキール・フセイン(インドの著名タブラ奏者)を​撮影しようと思い立つ。ザキールの音楽のベースは、インド北部の古典音楽、​ヒンドゥスターニー音楽であり、その特徴は、楽譜にしたがって忠実に演奏するものではなく、いわゆる即興音楽に近い。その意味ではジャズなどと共通している(*4)。また、ジャズのアドリブの場合は、他の人が直前に演奏した即興からインスパイアされる即興なども多く、そういったところがスポンティーニアスであり、聞き所でもある。

ザキールを生涯の師とするダヤニータであれば、日によって、場所によって、「美術館」の展示作品を変更して、組合わされた写真間のトーナリティーをチューニングするのは当然かもしれない。ジャズにとってテーマはあくまでもテーマにすぎないのと同様に、ダヤニータにとって写真はロー・マテリアル(素材)なのだから。

 

*1)日本での展示の記事
https://www.shiseidogroup.jp/gallery/exhibition/past/past2011_05.html (2011年資生堂ギャラリー)
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2013/399.html (2013年京都国立近代美術館)
http://www.transit.ne.jp/contents/info/2015/04/post-312.php (2015年アーツ&サイエンスAT THE CORNER)
https://www.topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2778.html (本展)

*2)写真展図録より引用

*3)ダヤニータ・シン講演会のウェブ掲載より引用
http://www.art-it.asia/u/admin_lec/Qu0DPeVG48fRat2nLbUo/?lang=ja

*4)インド古典音楽とは 主にヒンドゥスターニー音楽について より引用http://sound.jp/tengaku/IndianMusic/IndianMusic.html


講座を終えた雑感

みな様々な展示を見ていると思ったのと同時に、意外と同じことを頭の中に思い浮かべている気がしました。

ダヤニータの写真の組み方から、私は楽譜通りに演奏しないジャズのようなものを連想しましたが、東南アジアのアーティストの作品を展示するサンシャワー展を見た方々からは、宗教音楽食事が独自なように現代アートも独自だという感想がありました。

また、豊田市美術館の「抽象の力」を見た方もいましたが、キュレーションの?岡崎乾二郎のテキストに夏目漱石のFとfが出てきますが、ドクメンタを見た方のライティングにもFとfが出てくるなどの共通点があり、みなさんのライティングを見て共通点を探してみるのが楽しかったです。

全員のライティングを読み終えた今、ライティングのときもF(焦点的概念)とf(それに附着する情緒)のバランスを考えたほうがよいのだなと気づきました。おおむねfだけで書いてしまっているのですよね。展示で見たもの以外でもいいので(過去の作品とか歴史とか社会情勢とか含めて)Fの立証が必要なのかもしれません。

最後に講師の言葉の覚書を書いておきます。

  • 知らない人のための形式(レビュー)であれば、神の向こう側の読者を意識し他者のための目になってバーチャルな経験を与える
  • 同時に自分のためでもあるので、主観的、客観的なバランスが大事
  • 作品に対する思い、ニュートラルな視点、読者の興味を引く社会の現状、問題意識、背景とバランスのとれたライティングがあり、それはよかった
  • 自分のテーゼを展開するために会場の描写をうまく使うなど、たんなる風景描写だけでなく、読者が自分で感じるようになるテキストだとよい(神話的言及や他の絵画の引用が必要かも)
  • 全てを見切れていなくても、見た中から結論を表出しないといけない
  • 問いを立てて自ら答える
  • 作家に対して、賛成なのか反対なのか疑問なのか
  • 抽象ー表象、記録ー表現 このグラデーション
  • 書いているうちに新しいアイディアが導き出されることもあるが、自分の心を再検証して、本当にそう思ったのかを問う
  • 専門的な知識がなくても自分なりの解釈で書いてみる