現代アートの講座に4月から12月まで参加することにしました。
http://mad.a-i-t.net/wl/
先日第一回目があり、「未来派宣言」「マヴォの宣言」の朗読とディスカッションを行いました。
講座終了後に「未来派宣言」について自分なりにおさらいしたので書いておきます。
マリネッティが言いたいことは大きく2つ。
1、従来を否定
2、美的な価値観としてスピードを加えたい
このような態度は今はまあ普通に理解できることだと思うが、当時はびっくりすることだったのでしょうか?
あと、従来の否定とスピードを絡めて言えば、機械化で変わりゆく社会を目の当たりにして、従来芸術も根本的に変わった方がいいと考えるようになった、ということなんですかね。
●従来の否定について
従来詩でよいとされているところ(不動、睡眠)を否定している。
美の価値基準をスピードに置いていて、そのことからも従来詩を嫌う理由がわかる。
従来詩に対して、自らは、熱を持って攻撃的に死をも恐れずに跳躍的に詩を扱おうと宣言している。
従来の体制(博物館、図書館)や考え方(道徳主義、フェミニズム)を攻撃するという件は、権威主義(例えば当時の画壇とか)を否定しているともとれるが、マリネッティはバイリンガルであり、フランスの大学資格試験バカロレアに合格して、1898年の「老いた船乗りたち」がフランスの批評家たちにウケが良かったというので、権威を否定する側ではなかったと想像できる。
●スピードについて
自分たちの詩を大衆(労働、遊戯、反抗のために活動せる大多数)に献じたい、と言っていて、現代諸大國で様々な革命の潮流があることが歌いたい理由だという。
革命とは、産業革命以後の社会変化(工業化、都市化、資本家層と労働者層の誕生、非工業化地域の植民地化)を指しているのだろう。
詩の材料として様々なテクノロジーの時代のシーン(*1)を列記しているのだが、一つ一つ見ていくと武器工場だったり機関車だったりと、機械化やそれによるスピード感を詩に取り入れたいという考えが表されている。
実際、当時印刷された詩を紹介している本(*2)を見ると、スピード感を表しているような造語、だんだん大きくなる文字など、従来の何かを変えようとしていたことはわかる。
●戦争賛美について
堂々と戦争を賛美するのは、今日的にはおかしいんじゃないの?と思わざるを得ないが、当時の大国における植民地化政策について異論を唱える人なんて多くはなかったのではないか、という気もする。
大国の都市部の人々は、植民地化により自国に原材料が入り、植民地化された地域もよくなるんだと信じていたのだろうか。
しかし、芸術において、従来のものを一旦否定してみる態度や、機械化を取り入れる手法は、このとき初めて生まれた訳で(あってますか?)、未来派があったから、ダダとかシュールレアリスムも出てきたのだろうか、と改めて驚いている次第。
(*1)電灯に照らされた(ここが第二次産業革命以後という感じがする)武器工場が夜も操業しているシーン、機関車が行き来する停車場、煙突がそびえ立つ工場、刀のように輝いてまるで巨人が大河の上でポースをとっているような橋梁、地平線を嗅ぐようにみえる船舶、まるで鋼鉄の大馬のように軌道の上で足踏みしている機関車、飛行船?
(*2)塚原史「言葉のアヴァンギャルド ダダと未来派の20世紀」