シンポジウム「写真の複数の〈原点〉ー複写・複製・写し」

世界初の写真集、ウイリアム・ヘンリー・トルボット「自然の鉛筆」の日本語版出版と時を同じく、京都国立近代美術館キュレトリアル・スタディス10として展示「写真の〈原点〉再考」があり、それに合わせてシンポジウムが3月5日に行われました。

日本語版訳者の青山勝氏、かつてフォックス・トルボット・ミュージアムの館長を務め、オリジナルの「自然の鉛筆」を忠実に再現させたファクシミリ版を出版したマイケル・グレイ氏、写真表現以外にもカメラオブスキュラ・ドローイングを何度と行っている畠山直哉氏を招いたシンポジウムは、それぞれが、展示とシンポジウムの趣旨、「自然の鉛筆」の意味するもの、カメラオブスキュラによるドローイングについてのプレゼンを行い、続いてトークと、濃密な内容で、行った甲斐がありました。

まず、グレイ氏のファクシミリ版出版の動機が止むに止まれず的なもので驚きました。つまり、オリジナル写真集が写真部分は印刷ではなく(1844-46年は写真の印刷が確立してない)、印画紙を糊で貼っていたこともあり、今日では写真が劣化していて、でも研究者たちは、そういう状態の悪いものを見ざるをえなかった、そういう状況から要請された形で忠実に再現したファクシミリ版が出版されたらしいのです。

畠山氏のカメラオブスキュラによるドローイングは、映画「未来をなぞる 写真家・畠山直哉」でも紹介されていますが、作品集が作れるくらいに沢山描かれていたようで、驚きました。このドローイングはいわば自分がカメラになって描くわけで、個人的に思ったのは、実践したあかつきにはカメラの偉大さを実感してしまうのではないかということでした。

お二人のお話で共通していたのが、物事のオリジナルと同じやり方でやってみる姿勢で、そこには結果だけが重要なのではなく、プロセスも大事という考えに基づかれています。

私の知る範囲だと、プログラミングの勉強に他人のコードをそのままタイプして動かしてみる、いわゆる「写経」という習慣がありますが、それに似ているかもしれません。

グレイ氏の発言でなるほど、と思ったのは、トルボットは最先端を一人の人がやれる最後の時代の人だったのではないか、ということ。カメラルシダやカメラオブスキュラで射影された像を定着させたい思いから研究や実験を重ねたトルボット、そのようなことができたのは裕福だったからかもしれませんが、今のような情報過多な時代ではもっと大きなものに吸収されてしまうような気がしました。

また、畠山氏と『映像』の出会いもとても興味深いものでした。子どもの頃に、近所の人が箱にレンズが付いていて真上が磨りガラスになっているもの(カメラオブスキュラなのか?)を持っていて、それを見た時のこと。そこに写っている『映像』はテレビの中にある映像から受ける印象とは異なっていて、現実が持っている持続性が映像としてある、という実感を持ったとのことです。
つい最近のことですが、横浜でバスカメラに乗った時に見た映像は、言われてみれば、確かにテレビの映像とは質の異なる、生々しい『映像』を感じたことを思い出しました(当時の記事)。

今は便利で何でも簡単にできるようになって、それはとても素晴らしいことだと思っています。その一方、ものごとの原点はこんなに大変だったのかと理解できるように、たまには、せめて一生に一度くらいは遠回りしてプロセスを踏むことがあってもいいのでは、と思わされました。

翌日の日曜日、『映像』をもう少し実感したく、箱に虫眼鏡をつけて射影させてみたり、デッサンをしたりしました(突然すぎて自分でも不思議ですが)。お遊び的な内容でしたが、自分が普段撮影する時にファインダーに写っている様々なものをちゃんと目で見てないな、ということに改めて気づかされました。