小さな集団心理?、あるいは、伝え方が9割?

新聞でしかできないことってあるんだなと感じ入った記事を読み、新聞というものから記憶を辿って思い出したことを書いておきます。記憶を一言で言えば「諦め」です。子ども時代から諦めていたのか!と愕然としましたが、どうすればよかったのかも考えてみました(ほんと、今更すぎますが)。なお、タイトルに「伝え方が9割」とありますが、そのようなタイトルの書籍ともアマゾンビデオとも全く関係がありません。申し訳ありません。

「今日は何の日」プロジェクト

父が製紙会社勤務で、住んでいる町には製紙工場があり、学校のクラスの半分くらいは親がその会社勤務という状況な子ども時代を送りました。そんな環境のためか、製紙会社は学校にロール紙(模造紙が切れてない状態な感じ)を定期的に提供していました(無償だと思われますが、確認はしていません)。

ロール紙は学校の玄関脇に横にされて置かれていて授業などで自由に使えたはず。また、ロール紙が2、3本置いてあると、ロール同士がぶつかって脇から玄関の方に転がってしまい歩行の妨げになることも。気づいた人がロール紙を脇に戻すのですが、それが日常の些細な困りごとになっていました。

ある日、同級生が「今日は何の日」的なことをやりたいと言い、であれば、玄関のロール紙を使って教室の壁に貼れば紙をどんどん使えて、結果的にロール紙が邪魔にならなくなると思い、早速担任に相談、了承してもらい、実行しました。事前に色々調べておいて、放課後に次の日の「今日は何の日」をマーカーで大きな字で書いていたような。いつから始めたかは覚えていませんが、二十四節気の大雪(たいせつ)について書いたのだけ覚えているので(おおゆきと読まないのを初めて知り驚いたので)、12月上旬までは続けていたのでしょう。

そして、ある日、別な同級生から「紙の無駄遣いだ」という指摘がありました。先に書いた通り学校のロール紙自体は割と余り気味だったので、余っているから使っていると反論したのですが、無駄遣いだからやめろ派の同級生が多く、プロジェクトは中止。好意的に見ていた同級生もやめろ派になるなどあり、一人の指摘に次々に乗っかっていく様が集団心理のような気がしました(言われた側なのでこのような記憶になっているのかもですが)。ちなみに、当時は1973年でオイルショックの頃。テレビにはトイレットペーパー騒動の映像が流れていました(リンクはウィキペディア、知らない人は見てみてください)。

さて、昔話を振り返って考えると、4つ気づきがありました。40年超経ちましたが、気づいてよかったですよ。

そもそも何が問題だったのか?

ロール紙が通行の妨げになることがそもそもの問題でした。であるならば、ロール紙の管理があれでいいのかを問題にした方がよかったです。紙の有効利用は別な話でした。

あと、内容が面白かったらこういう展開にはなってないと思うので、クオリティが低かったのでしょう。そしてそれに気づけなかったことが痛い。

プロジェクトの始め方に問題はなかったのか?

仮にこのプロジェクトを始めるのはよしとしても、以下が問題でした、まあその間色々経験したから気づくことだとは思うのですが。

  • 勝手に進めたのは民主的ではない(→クラス会で決をとればよかった)
  • 他にやりたい人を募っていない(→クラス会でもいいし興味を示した人がいたので声をかけた方がよかったし、であれば内容もブラッシュアップできたかも)
  • クラス全般に支持してもらう工夫をしていない(→思いつきですが、クラス40人の誕生日を含めるとか)

集団心理はトイレットペーパー騒動だけが原因なのか?

確かにそういう時期でしたが、それだけじゃなく、始め方が民主的ではなかったため内容ではなくやり方が気に入らない同級生がいたとしても不思議ではありません。担任がOKだったら何でもできるのかよと思ったことでしょう。だから一人が疑問を呈したら多くが乗っかったのかもしれません。その意味で集団心理は伝え方が悪かったことの方が大きな原因だったのかもとも思えるのです。

プロジェクトの止め方はこれでよかったのか?

紙の無駄遣いだと言われて、真正面から受け止めてしまったのですが、「どうして紙の無駄遣いだと思うの?」と真意を聞いた方がよかったですね。たぶん反論しなきゃと思って紙は余ってると言ったと思うのですが、それを言ったらお終いだったかも(笑)。また、止めざるを得ないなあという感じだったとしても、反省会というか振り返りはした方がよかったですね。クラス会でやるのであれば、上述した、そもそも&始め方を振り返った上で止めた方がいいのか意見を聞き、今後はどうしたらよいのかを考えるとか。せめてやり始めた私たち二人だけでも。

上述のプロジェクトはこのように目的不在なものでした。では目的があったとしたら、民主的な伝え方をしなくても続けられるものなのでしょうか。今は、伝え方の方が大事なのかなと漠然と思っています。

おまけ

私の記憶にある集団心理は大したことはないのですが、トイレットペーパー騒動で紹介されている大阪のスーパーの例や、大阪つながりで思い出したのが1995年に起こった木津信用組合の預金取り付け騒ぎ。個人的な例では、東日本大震災発災後にウチの近所のスーパーの棚から缶詰と生理用品が無くなっていたのは鮮明に覚えています。なんなんですかね。時間があれば考えてみたいです。

それと、書き出しの、新聞にしかできないことについてもまた改めて。