『アートをみる』ではなく、『アートでみる』ために −まるで粘土をこねるように−

現代アートの講座・読み書き工房第六回は美術と社会性についてライティングするというもの。送付したテキストを以下に貼り付けます(変更したいところもありますが、取り急ぎ)。


 

読み書き工房の開講後すぐに、オススメされたマリア・タニグチの展示を見に行った。入ってすぐに、これは10秒も持たないと思いつつも、オススメなのでできるだけじっくり見たが、感想が書けなかった。見えているものが黒い表面、レンガ状に描かれた線であり、レンガひとつひとつのグレースケールの濃淡の違いこそあれ、巨大だね、繰り返しだね、たまにずれてるね、と見ている側からの報告しか浮かばなかった。

このとき以来たまに思い出すのが、なぜ解らないものの感想を書けないのか、そして、解らないものから逃げない術はないのか、の二つの疑問である。

さて、この数ヶ月間、宮川淳などこれまでに読んだことのない評論を読む過程で、段落ごとに読んだり、インターネットで調べたりして、難解さにどうにかついていこうとしてきた。このときの自分の試行錯誤が、まるで作品を制作するときの苦しみにも思えてしまい(同時期に、別な解らないもの −どうしたら、とある団体のオンラインショップが認知されるか、売り上げにつながるか− へ向かっていたこともあり)、ひとつの仮説が自分の中に生まれた。

つまり、現代アートというのは、アート作品そのものというよりも、生きにくい現代に生きる私たちが解らないものに向かう際の手法なのではないか。そして、解らないものに向かって、まるで粘土をこねるように(*1)、なんとか形にしたものが現代アート作品なのではないか。さらに、解らないものに向かって形になったアート作品に向かう(鑑賞する)ことで、別な解らないものが出現しても逃げないでいられるのではないか。そう思うと、今日における鑑賞法など知りたくなり、調べてみると、「対話による美術鑑賞教育」や、「ヴィジュアル・シンキング・ストラテジーズ(以下、VTSと略)」の存在に気づいた。

VTSは、1991年からMoMAで始められたという。もともとは来館者のヴィジュアル・リテラシーを高める方法論として開発。その方法論が学校教育においても有効であることを検証し学校教育で利用されているという(*2)。

開発に際して、研究者アビゲイル・ハウゼンによるMoMAでの調査の結果、参加者は提供している内容(展示以外のレクチャーやキャプションなど)を終了直後ですら記憶していないことがわかった(*3)、というのが大いに頷けた(メモを取らない限り記憶できない)。

さらに、鑑賞は、初心者でも研究者でもそれぞれの方法で楽しむことができるのに、初心者に役に立たないのが、レクチャーやキャプションとのこと。自分なりに作品に意味を見出している最中に専門的な知識が紹介されると「作品を正しく鑑賞するためには知識を持っていなければいけない」と思ってしまい、自分で見ることをやめてしまう、というのだ(*4)。

また、ハウゼンによれば鑑賞者が「何を知ったか」ではなく、「知っていることをいかに活用したか」に着目すべきだということ(*5)。

マリア・タニグチに話を戻そう。私は冒頭で、『なぜ解らないものの感想を書けないのか』と書いた。だがしかし、VTSの手法によれば、まずは、感想ではなく、作品の中にあるものから気づいたことを挙げていけばいいのだ(描かれているものが何であるのかが解る具象画と、よく解らない現代アートでは異なるのは尤もだが)。

表面は黒っぽい。一見、硯や墓石を連想させる。
描かれているものはレンガ状の小さなセル。あまりにも多い。
キャンバスは大きく、厚みがある。絵画にも見えるし、オブジェにも見える。
制作には相当時間がかかるだろう。苦行とも思えるが、制作の過程で夢中になり時間が経つのも忘れて制作に没頭していたのではないか。
そのように思ったのは、遠くから見ると不思議なリズム感が生まれ、それが均一のリズム、ときにはシンコペーション、ときには拍子が変わったかのように見えてくることがあったから。
(*6)

私が冒頭に書いた『見ている側の報告』に比べるとどうだろう。少なくとも『見ようとした』、『知っていることを活用しようとした』努力は認められ、前者は『見ている』のではなく『眺めている』にすぎないのではないか。眺めていることは作品との対話を行っていないとも言える。作品に耳を傾けなければ、解らないものはいつまで経っても解らないままだろう。

最後に、VTSの授業を受けた米国の6年生の感想文を引用したい。

最近、展覧会に行きました。気になる作品の前にいると必ず、VTSの授業でやっている質問が頭にうかんできました。「まずは、この作品や詩をじっくりと見てみましょう」「もっと発見はありますか」「この作品のどこからそう思いましたか」です。こうした問いかけは自分で作品をみる手助けをしてくれます。すみからすみまで、描かれている全ての人、全ての色についてこれらの質問に答えようとすると「全体」がみえてきます。いわばアート作品の中にあるさらに深い意味をみつける手助けをしてくれるのです。 (*7)


(*1)「私の師匠の佐藤真の制作姿勢がシナリオを書かないもので、まるで粘土をこねるように次第に形にしていった」映画監督・畠山容平のトークでの発言(2017年2月)

(*2)フィリップ・ヤノウィン「どこからそう思う? 学力をのばす美術鑑賞 ヴィジュアル・シンキング・ストラテジーズ」、2015年、淡交社、p11

ちなみに、米国初等教育におけるVTSでは、先生がファシリテーターとなり、生徒に美術作品の画像をよくみるように促し、シンプルな3つの問いかけをする(①この作品の中で、どんな出来事が起きているでしょうか、②作品のどこからそう思いましたか、③もっと発見はありますか)

また、VTSは、公平な学びの場を構築し、対話を通して相互理解を深め、ピアラーニング(同僚同士、生徒同士で議論を深めるスタイル)を促進するための基礎的な方法であり、教師は一定の方向に誘導したりすることはせず、各意見の共通点や相違点を示しつつ、ディスカッションの間はファシリテーターに徹する。など知ると、読み書き工房のディスカッションがそのような場であったことに気付いた次第。

(*3)同上、p18

(*4)同上、p21

(*5)同上、p19

(*6)ARTit、マリア・タニグチ インタヴューを読んでしまった後に書いたので、その影響も少なからずあるかと。
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/Yir0IunKb1Nl63sgvmAQ/

(*7)フィリップ・ヤノウィン「どこからそう思う? 学力をのばす美術鑑賞 ヴィジュアル・シンキング・ストラテジーズ」、2015年、淡交社、p136